Biography


[人物]


マーク・ノップラー(本名 Mark Freuder knopfler OBE)は1949年8月12日にイギリスのスコットランド地方グラスゴーで生まれました。

1939年にハンガリーからスコットランドに移住したユダヤ系ハンガリー人の建築家エルヴィーン・クノップフラー (Erwin Knopfler)とアイルランド人の妻との間に生まれ姉一人と弟一人(デヴィッド)の3兄妹の真ん中で長男だそうです。

この聞き慣れないノップラー<クノップフラー>(Knopfler)という苗字は父親のドイツ語の苗字に由来するそうです。

ちなみに本名の最後のOBEは大英帝国勲章(Order of the British Empire)を1999年に授与したので名前の最後に付いています。

名誉大英勲章の4位にあたるらしくイギリス国民としては栄誉な事であり、あのデイヴィッド・ベッカムやQUEENのブライアン・メイ等も授与されています。

尤もこれは正式な文書やパスポート等の手続きの際に名前の最後付けるぐらいで普段の生活では表示されたりはしない様です。

プライベートに関しては離婚歴は2回あり現在はノップラーにとって3番目の妻であるKitty Aldridgeさんと1997年のバレンタイン・デーにバルバドス島の別荘で式を挙げたそうで、現在もイギリスでこの奥様や子供達と仲睦まじく暮らしているとの事です。

また子供は二度目の奥様との間に1987年に産まれた双子の男の子、Benjamin君とJoseph君と1998年に現在の奥様Kiityさんとの間に産まれた女の子、Isabellaさん、2003年に産まれたKatya Ruby Roseさんの4人です。(
情報提供 : とみさん : Thanks !)



[夢への奔走]


ニューカッスルに家族ごと移住した10代の前半から独学でギターを始めメキメキと上達し、ハイスクールに通う頃には既に学校や地元の街で評判になる程の腕前だったそうです。

この頃の彼のアイドルはハンク・マーヴィン(ザ・シャドウズ)、チェット・アトキンス、J.J.ケールだったそうで、この3人がノップラーに与えた影響は現在の完成したスタイルの重要な骨子になっているといえます。

その後新聞記者として働く傍ら、ギターの練習や複数のバンドを掛け持ちし音楽活動に勤しんでいたそうです。

音楽のコラムも掲載していた様で、中でも1970年に行われたジミ・ヘンドリックスやローリング・ストーンズ等のコンサート・レビューの掲載記事は秀逸だったとの事です。

その間もコツコツと音楽活動を続けていましたが、夢の実現には程遠く今度はカレッジの講師という教職に就きます。
おそらくこの頃のノップラーは何の展望も見出せない状況に幻滅してまっとうな職に就こうとしていたのかもしれません。

そしてその後いよいよ運命のバンドのメンバーが集結します。

教師のノップラーと弟のデビッド、社会学の学生ジョン・イルズリー、スタジオ・ミュージシャンのピック・ウィザースによって組まれたバンドが「カフェ・レイサーズ」でした。

当時、音楽で生計を立てていたのはセッションマンのウィザースのみで、マークは成人教育カレッジの講師、デヴィッドは民生委員、ジョンは大学に通う傍ら銀行に勤めて収入を得てその収入を全て音楽活動に注ぎ込んでいました。

ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」("dire"は「ひどい、無残な、差し迫った」、"strait"は「断崖、苦境、困窮」の意)の名称になったといいます。

ロンドンの南部のアパートで共同生活をする彼らの暮らしはそのぐらい困窮していたのでした。

バンド名を変えた彼らは夜な夜なロンドンのクラブやライブハウスで活動しながらレコード会社のオーディションを受けまくっていたそうですが
結果はどれも不合格だったそうでその度に彼らは自信を失いかけてヘコんでいたそうです。



[運命のデモ・テープ]


そんな彼らにも転機が訪れます。

1977年7月にラジオD.J.のチャーリー・ジレットに送った1本のデモ・テープが運命の扉を開く事になったのです。
ちなみにそのデモ・テープに収められたのは5曲で

「Water Of Love」
「Sultans Of Swing(悲しきサルタン)」
「Wild West End」、
「Down To The Waterline (水辺へ)」
「Secred Loving」

でした。

ちなみに「Secred Loving」は弟のデビッド・ノップラーが作曲です。

ジレットはその中の1曲を大変気に入りBBCラジオの自分の番組<ホンキー・トンク>で繰り返しエアプレイしたのです。
今で言うヘビー・ローテーションでダイアー・ストレイツのある1曲をかけ続けたのです。

その曲こそバンドはおろかマーク・ノップラーの生涯の代表曲となる「Sultans Of Swing (悲しきサルタン)」の奇跡のテイクでした。
ちなみにこのテイクやデモ・テープに収められた他の曲は今日私たちが聴いているあのテイクとは別テイクでした。

今では聴ける事は無いと思われるこのデモ・テープですが、幸いにも1979年にチャーリー・ジレットが監修して発売された「The Honky Tonk Demo」というアルバムにこの奇跡的なテイクは「Sultans Of Swing」1曲ですが収められています。

この番組のおかげでダイアー・ストレイツは評判を呼び、遂にヴァーティゴ・レコードと契約をします。



[デビュー]


念願のレコード契約を結んだ彼らですが売れる為にはまずファンを獲得しなければならず、ファンを獲得する為にはツアーに出なければなりません。
ダイアー・ストレイツのデビューツアーは78年1月から2月までのトーキング・ヘッズの前座としての約1ヶ月の全英ツアーでした。
ツアーでの評判は概ね好評でこの地道な努力が実を結び徐々に知名度が上がってきました。

そしてマフ・ウィンウッド(スティーブ・ウィンウッドの兄)をプロデューサーに迎えてレコーディングを行いました。
出来上がったアルバムは「Dire Straits(悲しきサルタン)」と名付けられ1978年6月に満を持してリリースされました。

最初は思う様にはチャートを上っていかなかったこのアルバムですが6月からのツアーやラジオのエアプレイやメロディメーカーの様な音楽雑誌への広告等の効果もあり、結果的に「ビートルズ以来最も売れたデビュー・アルバム」と評される程の売れ行きとなりました。
そしてそのレイドバックしたサウンドはアメリカ人にも大受けでアメリカでも大ヒットになりました。
結果的に全英で8位 全米ではなんと最高4位というチャートアクションを見せました。
デビュー・アルバムとしては大成功でこれ以上何を望めというのでしょうか?

当初はプロデューサーのマフ・ウィンウッドでさえこのデビュー・アルバムがそんなに売れるとは思わなかったそうです。
特に外国においては全く売れないと思っていた様です。
それが証拠にマフが国外での印税問題をきちんとしなかった為に莫大な大金がイギリスに戻ってきてしまい、結局マフはそのうちの殆どを内国税収入として失う事になってしまったそうです。

そんなマフの悲観的な予想を裏切り人気はヨーロッパ全土にまで飛び火し、アルバムも大ヒットしました。
特にベルギー、オランダでの人気は凄まじくバンドは早速それらの国でもツアーを行う事になったのです。



[栄光の幕開け]


ノップラーはメイヴィス・ステイプルズ(ステイプル・シンガーズ)のソロアルバムのレコーディングの為に立ち寄ったアラバマの伝説のスタジオ、
マッスル・ショールズでアトランティック・レコードの副社長のジェリー・ウェクスラーと意気投合し、
ジェリーとこのスタジオのオーナーでありキーボード・プレイヤーでもあったバリー・ベケットの2人に2ndアルバムのプロデュースを依頼しました。

レコーディング自体は1978年10月からスタートしましたが翌79年2月からは初の全米ツアーが始まりました。
バンドとジェリー、バリーらは、ツアーの合間を縫い、入念なレコーディングと丁寧なプロデュース・ワークを重ねていきました。

またこの時期には、ノップラーのアイドルであったボブ・ディランも彼らのコンサート会場まで足を運び、楽屋で彼らを激励したといいます。

彼らの演奏を聴いたディランは中でもノップラーのギター・プレイやバンドを統率していく力量を認め、なんと自身のレコーディングにノップラーとピック・ウィザーズを指名したのです。
これにはジェリー・ウェクスラー、マッスル・ショールズ・スタジオというダイアー・ストレイツのレコーディングと同じ環境だったのも大きな理由でしたが、新しい何かをディランはノップラーのプレイの中に見い出したのでしょう。
このレコーディングでノップラーは往年のロビー・ロバートソン(ザ・バンド)を彷彿させるプレイでディランとの相性の良さを証明してみせました。

またこの年の2月には西ドイツ(当時)の人気番組「ロックパラスト」に出演しました。
この番組に出演出来るという事は一流のミュージシャンであると認められた証の様なもので、メンバー全員喜んで出演を快諾したといいます。
出演した映像を観るといつも以上にタイトな演奏で、なおかつリラックスしていて終始ニコニコしている彼らを確認出来ます。

そうして中で完成したアルバムが1979年6月にリリースされた「Communique(コミュニケ)」です。
2ndアルバムの発売に合わせて6月からヘッドライナーとしては初の全英ツアーを行いました。
地道なライヴ活動で着実に力をつけた彼らは、その勢いそのまま全米ツアーでもその実力を遺憾なく発揮しました。

しかし評論家のレビューは辛辣なものが多く「冒険が無い」、「アップ・テンポの曲に魅力が乏しい」等々、散々な評価でしたがファンは概ねこのニュー・アルバムには好意的で結果的に全英5位、全米11位までチャートが上がり、トータル700万枚を超えるセールスを記録するヒットとなっています。

全英ツアーが終わると約3ヶ月の休暇がありその後アメリカの何ヶ所かでライヴを行います。

そして8月には先の全米ツアー中にノップラーやウィザーズが参加したボブ・ディランのアルバム[ Slow Train Coming ]が発売されました。
神への愛を歌ったこのアルバムはディラン・ファンにはあまり好評なアルバムではなかった様ですが、ノップラー・ファンの立場で聴いてみると、まるでダイアー・ストレイツのアルバムにディランが参加したかの様なサウンドはなかなか充実しており、秀作との評価もあるアルバムでした。

1979年は前作「悲しきサルタン」の余韻が冷め遣らぬうちにツアーに次ぐツアー、2ndアルバムのレコーディング、そしてディランとの邂逅と慌しい1年でした。



[変革と確執]


1980年になるとノップラーは3rdアルバムの制作の構想に入ります。
前作[ Communique ]は少々活気が足りず地味な内容だったと感じる様になっていたノップラーは、次作はもう少しロックっぽいパンチの効いたサウンドにしたいと考え、また将来スタジアムで演奏する様になった時にはそういった活気のある曲が必要だといった現実的な野心もあった様でその方向でプロデュサーを探しました。

白羽の矢が立ったのは、トム・ペティやグラハム・パーカー、そしてパティ・スミスの[ Because The Night ]を手掛けたJimmy Iovine(ジミー・アイヴォイン)でした。

そして制作された3rdアルバムは前作と打って変わって8分以上もある大作[ Tunnel Of Love ]やシェイクスピアの同名戯曲をモチーフにロマンティックな恋物語に仕上げた[ Romeo And Juliet ]、そしてキャッチーで力強いロック・ナンバー[ Solid Rock ]等の力作が収められた内容となりました。

しかし残念ながらこのレコーディング中になんとマークの弟、デヴィッドがバンドを脱退してしまいました。
一説にはマークがデヴィッドのギターの力量に不満を持っていてクビにしたとか、レコーディングに自分の音が殆ど入っていない事に怒ったデヴィッドが自ら辞めたとか色々いわれていますが、結果的にダイアー・ストレイツのサウンドにとっては何の痛手にもなりませんでした。

そうしたドタバタを乗り越えて3rdアルバム[ Making Movies ]は1980年10月に無事リリースされました。
その後ニュー・アルバムに伴うツアーが始まりますが前回までのツアーよりも会場の規模が大きくなり、いよいよこのアルバムに収められた曲が映える状況が整ってきました。
ノップラーの読みと準備と計画は見事に当たり、バンドは時代を捉えていく事に成功したのです。

翌1981年までこのアルバムに伴うツアーは続けられ、ダイアー・ストレイツは世界制覇への階段を駆け上っていきました。



[80年代への疾走]


1981年の後半に入るとノップラーは既に次のアルバムの構想を練り始めます。
ワールド・ツアーで得た感触と、前作よりも更にステップアップした作品を創りたいという考えを合わせた結果、静と動のコントラストをはっきり付けた楽曲を制作するという結論となりました。

またその為には自分のアイデアを100%理解し生かせるプロデューサーが必要となりました。
つまりノップラー本人がプロデュースする事となったのです。ノウハウはそれまでのレコーディングで蓄積されています。
その結果前作以上に大作志向となった内容のアルバムが完成しました。
1曲目から14分以上ある[ Telegraph Road ]や静と動のコントラストの美ともいえる[ Private Invistigations ]等長編の曲が大半を占める事になりました。

この内容にコアなダイアー・ストレイツ・ファンは拍手喝采を送りましたが、初期のアルバムの様な小粋でクールなロックン・ロールを求めていたファンには不評を買ってしまったアルバムでした。
しかしアルバム自体は評判を呼び全英で1位、全米でも19位と健闘し最早ダイアー・ストレイツのファンは世界中で増殖し、その人気が不動のものとなっていきました。

またこの時期にノップラーは映画音楽のスコアを手掛けるという新しい分野へのチャレンジをします。
映画「ローカル・ヒーロー/夢を生きた男」はバート・ランカスター主演のスコットランド地方が舞台の内容で、ノップラーはスコットランドのトラディショナル・ミュージックを巧みに取り入れた音楽でこの映画に彩りを加えました。
この映画の音楽に対する評価は今日に至るまで大変高く、ノップラーもその自信を深めその後も次々と映画音楽の分野でも活躍する事となりました。

ニュー・アルバムに伴うツアーは1982~1983年にかけて行われ、その内容は今までにも増してスケール・アップされたものとなりアリーナ・クラスの会場で公演を行うに相応しいパフォーマンスを繰り広げる様になりました。

そして1983年4月には待望の初来日公演を行いましたが会場は東京は日本青年館ホールで大阪では万博ホールと、今の彼らにとっては海外での会場に比べると少々小規模の会場で、しかも客席も空席が目立つ寂しい業況でしたが、手抜きをせずしっかりと日本のファンの前で素晴らしいプレイを繰り広げました。
観客動員の不振の原因は恐らくプロモーターや招聘元の読み違い、解り易くいうと来日のタイミングが良くなかったのではないでしょうか。
1stアルバム「悲しきサルタン」は日本でも話題になりましたし、その後の「Money For Nothing」の大ヒットも話題になりましたのでもしかしたら1979年頃や1985~86年頃に来日していれば我が国における今日のダイアー・ストレイツ、マーク・ノップラーの評価もまた違ったものになったかもしれません。

その翌年1984年には前年の地元イギリスのロンドン、ハマースミス・オデオン公演を収録した2枚組ライヴ・アルバム[ Alchemy ]を発表しました。
このアルバムは先の日本公演の内容とほぼ同内容のセットリストだった事もあり、日本のファンにとって来日公演のノスタルジーを掻き立てる思い出深いアルバムとなりました。
そしてこのアルバムには収められていませんが、同公演ではノップラーのアイドルだったシャドウズのハンク・マーヴィンとの競演という少年時代からの夢を果たしました。

その後はノップラーは映画「キャル」で再び映画音楽のスコアを手掛け、ジョン・イルズリーは初のソロ・アルバムを制作、リリースする等1984年はライヴ・アルバムの発売でデビュー以来、駆け足で世界を駆け巡ったバンド活動がひと区切りついた形となり、バンド以外の課外活動が目立った1年になりました。



[MTV全盛時代]


1984年をバンド以外の活動で色々新鮮な空気を吸ったノップラーは5thアルバムの制作に取り掛かりました。
ほぼ3年振りとなった本アルバムですが、それまでのエスカレートする一方だった大作志向からC&Wやロックン・ロール等の自分達のルーツを見つめ直したコンパクトな作風となっています。

また時代性という意味ではこの頃ちょうどMTVが全盛の時代だった事もあり、それらを風刺したり世界で起こる様々な悲劇的な出来事を辛辣かつ第三者的な立ち位置から物語風に描写するという新たな手法も見受けられる歌詞が大半を占めており、サウンド的にもかなりバラエティ豊かな内容のアルバムに仕上がりました。

そしてこのアルバムからは[ Money For Nothing ]というバンド初の全米チャートNO.1シングルを生み出しました。
この曲はスティングとの共作という形になっており、Steinburgerギターによる無機質なキター・サウンドのリフが印象的なロックン・ロールです。
また共作者であるスティング自身がゲスト参加して印象的な歌声で曲に彩りを添えています。
この曲のPV(プロモーション・ヴィデオ)はその当時としては斬新な3DアニメのPVであり、その年のMTV大賞に選ばれました。

またこの年にはあのLIVE AIDが行われ、クイーン、デヴィッド・ボウイの前という主役クラスの扱いでダイアー・ストレイツは登場し[ Money For Nothing ]と[ Sultans Of Swing ]の2曲を演奏し、前者ではアルバム同様スティングと共演し話題を振りまき、こういった大規模なフェスにも強い事を証明しました。

このアルバム発表後約2年に渡る大規模なワールド・ツアーを行う彼らですが、これにはイギリスでの税金対策で税理士より1年間は国外にいる様にと言われたバンドが、それならその間を利用してツアーをしようという事になったとも言われております。

テレビのスイッチを押せば自分達の曲が何百万人に簡単に聴いてもらえるというMTV全盛の時代状況の中で、昔ながらの世界中を飛び回ってファンの前で精力的にライヴ活動を行うという古典的な興行スタイルでその人気を更に不動のものにしたというのは高く評価出来ますし、結果的に精力的なライヴ活動で認知されたMTVを揶揄した曲(MTVでの認知の方が圧倒的に多いでしょうが)でMTV大賞を受賞したりする皮肉な好結果をもたらしたりもしました。

ちなみにリアル・タイムでの初CD(コンパクト・ディスク)アルバムでもあり、このアルバムの大ヒットにより世界中のリスナーのそれまでの主流だったLP(アナログ・レコード)やCT(カセット・テープ)からCDへの移行が3年は早まったと言われています。

そうして約2年間世界を席巻したダイアー・ストレイツは再び眠りについてしまいます。



[沈黙は金]


ダイアー・ストレイツ史上で最も大きなツアーを終えた安堵感もつかの間、ノップラーは積極的に課外活動に勤しみます。
リーズ時代の旧友のSteve Phillips達とセッションを行い、いにしえのC&Wやブルース等を爪弾く等心からリラックスしたいわばレイドバックした演奏を楽しんだり、イギリス王室主催のPrince's Trust Concertにジョン・イルズリーと共に参加しEirc ClaptonやElton John、Paul McCartneyといった大御所の先輩ミュージシャンと共演を果たしたりしました。

またノップラーにとって師匠であるChet AtkinsのTV番組の特番で共演を果たし、以後この2人は交流を深めていきます。

その傍らでまたもや映画音楽のスコアを手掛けたりをしました。
以前に手掛けた[ Local Hero ]や[ Cal ]、[ Comfort And Joy ]等は映画音楽と言いつつもノップラーの煌びやかなギター・プレイが散りばめられていましたが、今回の[ The Princess Bride ]ではダイアー・ストレイツの盟友Guy Flectcherの弾くキーボードによるオーケストレーションが主体のいかにも映画音楽然とした美しい楽曲が収められており、ギター・プレイを期待していたファンには少々期待ハズレの内容だったかもしれません。

そしてノップラーにとってひとつの転機になったのが先のPrince's Trustで競演したEric Claptonのバンドにサポート・ギタリストとして参加した事でしょう。
ギターの神様と謳われるEric Claptonのバックでギターを弾く楽しさについてノップラーは当時インタビューでこんな風に語っていました。

「人の後ろで弾くというのはある意味責任がなくて楽なんだよ。しかもEricのバックなら自分とプレイ・スタイルが違うのでギター・バトルにならずにお互いに敬意を持ったプレイを出来るのさ。久々に純粋にプレイする楽しさを思い出したよ。」

いつもダイアー・ストレイツのフロントマンとしてバンドを引っ張ってきたノップラーにとってはさぞかし新鮮な経験だったでしょう。
この編成でのEric Claptonツアーを約2年に渡って行っている事からもいかに居心地が良かったかを物語っていると思います。
またこのバンド編成で1988年のPrince's Trustに参加したり、Elton Johnをスペシャル・ゲストに迎えた[ Eric Clapton 25th Anniversary Tour ]で5年ぶりに日本の地を踏んでいます。

この日本ツアーでは[ Money For Nothing ]と[ Solid Rock ]がセットリストに組み込まれ日本のクラプトン・ファンからも大喝采を浴びました。
また同時期に来日していたStingが日本武道館公演で飛び入り参加し[ Money For Nothing ]を歌い、あのLive Aidの再現を見せてくれた事は日本のファンの良い思い出になっている事でしょう。

しかしこうした課外活動は充実していたものの本業であるダイアー・ストレイツは未発表テイクを含んだBESTアルバムは発売されたものの実質休業状態が続いており、ファンはいつになったら活動再開するのか、そしてまたあの素晴らしいサウンドを聴かせてくれるのか不安を募らせていました。

そんなダイアー・ストレイツがこの時期に突然不死鳥の如く世界中のファンの前に姿を現しました。
世界40カ国以上で中継のあったイベント[ Nelson Mandela Birthday Concert ]になんとサイド・ギタリストにEric Claptonを従え堂々のパフォーマンスを披露してくれました。

その後1990年のチャリティ・コンサート[ Knebworth 1990 ]にもダイアー・ストレイツとして登場しEric Clapton Bandとのジョイント・コラボという新しい形での競演を果たしました。

しかしその後は再び沈黙を続け、ノップラーは再び課外活動に没頭する日々が続きました。


[旧友達との再会]


そしてノップラーは86年のワールド・ツアー終了後に再会したリーズ時代の旧友のSteve Phillipsとバンドを結成します。
メンバーはSteveとデュオを組んでいたBrendan Clocker、ダイアー・ストレイツのGuy Fletcherとノップラーの4人で、その時に一堂に会したスタジオの場所から[ The Notting Hillbillies ]と名付けられました。

このバンドのサウンドはフォーク・ブルースやジャズ、ロカビリー等アメリカン・ルーツ・ミュージックの集大成といった趣きで、制作されたアルバム[ Missing... Presumed Having a Good Time ]はその渋い音楽性にも関わらず大ヒットを記録しました。

その後アルバムのプロモーションに伴う全英ツアーを行い、その時には後にノップラーにとって長い付き合いにあるペダル・スティールの名手Paul Franklinや、なんとダイアー・ストレイツのマネージメントの社長Ed Bicknellがドラムで参加したりと話題性もありました。

このバンドはその後も何年かに一度不定期に結成され1999年ぐらいまで気ままに活動をしていました。

こうした一連の課外活動に加え更に映画音楽のスコア[ Last Exit To Blooklyn ]を手掛けたりとノップラーの中でダイアー・ストレイツの次なるステップのアイデアが充分に蓄えられていきました。


[有終の美]


1991年頃からダイアー・ストレイツは6年振りのアルバム制作の為全員がスタジオで顔を合わせました。
そして制作されたアルバム[ On Every Street ]は今までのアルバムの中でもBESTと呼べるほどの高いクオリティの楽曲・演奏が収められ、長期に渡った課外活動の成果が表れた傑作になりました。

実際にはThe Notting Hillbilliesのアウトテイクだった[ Calling Elvis ]や[ When It Comes To You ]といった楽曲が収録されてましたが、これはおそらくThe Notting Hillbilliesでは消化しきれなかったのでダイアー・ストレイツで新しいアレンジやサウンドによって生まれ変わったといっても良く、このアルバム[ On Every Street ]はThe Notting Hillbilliesがあったからこその必然的な内容になったとも言えるかもしれません。

そしてこのアルバムに伴うワールド・ツアーが前回を超えるスケールで行われ、このツアーは足掛け2年にも及ぶ大規模なものとなりヨーロッパではフェイエノールト・スタジアムやアホーイといったサッカー・スタジアム、アメリカではLAフォーラム、マジソン・スクエア・ガーデン、オークランド・コロシアム等の巨大な会場で行われました。

演奏内容もPaul FranlinやChris White、Phil Palmer、Chris Whittenといった名手を配した鉄壁の布陣で、これ以上は良くならないのではないかと思われる程の完成度を誇りました。

このツアーの後半ではメンバー全員がもうこのツアーがダイアー・ストレイツの最後だろうと感じていたといいます。
そのぐらい音楽的にも演奏パフォーマンス的にも円熟してしまい飽和状態だったのではないでしょうか。

幸いにもこのツアーの模様は9年振りのライヴCD[ On The Night ]や同名のライヴVIDEOとして発売されこのツアーのその圧倒的なスケールのパフォーマンスを余すところ無く伝えています。

またこのツアーの終了後の1993年にはノップラーの父親Erwinさんが他界するという不幸な出来事もありました。

このツアー後、あまりにも巨大化してしまった一大プロジェクトの様相を呈してきたダイアー・ストレイツが重荷になってきた事や、ノップラーが最早ダイアー・ストレイツでやり残した事はないと考える様になり自然消滅に近い形で1995年にひっそりと解散しました。

ダイアー・ストレイツは正にこのツアーで有終の美を飾った形になり、[ On The Night ]はスワン・ソングとなったのです。


To Be Continued ...